さて、刃物の大まかな形はできあがりました。
ですが、前回も書いたとおりまだこの状態では刃物としては使い物になりません。
芯にはさんだSUS440C鋼は、赤くなるまで熱してゆっくりと冷ますという「焼き鈍し」処理をされたため、今、もっとも柔らかく、加工しやすい状態になっています。
柔らかいということは刃物としては「ナマクラ」、切れないということ。
そこで次にこの焼き鈍しされた鋼を硬く変化させ、刃物としての命を吹き込むことにしましょう。
それがこれから行う熱処理という一連のプロセス。
叩いたり、曲げたり、削ったりという操作は一切しません。
ただ熱したり、冷ましたりと温度を変えてやるだけ。
それだけで鉄はまるで別の素材に生まれ変わったかのようにその性質を変えてくれるんです。
まずは焼き入れ。
ドラマとかマンガとかで怖いオニーちゃん達が言ってますよね。
「最近アイツ調子に乗ってんよな。いっぱつヤキ入れてやっか・・・・」
この「ヤキ」こそがまさしく熱処理。「焼き入れ」を語源としているのは使ってる本人達も知ってか知らずか。
常温で鉄はフェライトという組織とパーライトという組織がごちゃ混ぜになった状態になっています。
これを加熱してやるとオーステナイトという組織に変わります。
これを冷やしていくと、またフェライトとパーライトの混在組織にもどる、はず。
なのですが。
この「組織の変化」は「原子の配置換え」をともなうため、ゆっくりとおこります。
つまり、若干の時間が必要だってこと。
じゃ、この時間的余裕を与えずにオーステナイトを一気に冷したらどうなっちゃうのでしょうか?
元の組織に戻る間もないままオーステナイトはそのまま固まってしまい、マルテンサイトという非常に硬い組織になってしまうんですね。
これが「焼き入れ」という操作。
この硬いマルテンサイト組織があってこそ、切れる刃物が作れるわけです。
ちうことで実際にやってみましょう。
まずは加熱。
焼き入れ温度はその素材の種類によって決まっていますのでメーカー製作のデータシートなんかを参考に。
今回使用したSUS440Cでは焼き入れ温度は1050℃。
組織が安定するまでその温度でしばらく保持します。
普通の鋼ならもっと低い温度ですむんですけどね。
ステンレスはひとつひとつの工程が面倒でイカンです。
加熱された素材を炉から取り出し、水で一気に急冷します。
大事なのは焼き入れ温度に近い高い温度の領域を特に急いで冷すということ。
500℃くらいまで温度が下がってしまえばあとは冷却スピードはほとんど関係なくなります。
というかそこから先は急いで冷やすと割れやゆがみを生じる可能性があるので逆にゆっくり冷やしたいくらい。
「マルクエンチ」といって、実際にそういう風に行う熱処理法もありますです。
これで焼き入れができました。
と言っても充分ではないんですね。
まだ続きがあります。
「焼き入れ」の過程を細かく調べていくと、「焼き入れ」をするためにはまず、焼き入れ温度から「ある温度域」まで急冷してやる必要があります。
ただ、その「ノーズ」などとも呼ばれる「ある温度域」ではまだマルテンサイト組織は生じていません。
さらに温度を下げていくと、ある決まった温度でマルテンサイトが生じ始めます。
これがMs点と呼ばれる温度。
で、さらに冷やしていくと、温度が下がるに従ってオーステナイトはどんどんマルテンサイトに変化していきます。
Mf点と呼ばれる温度まで冷却されると、最終的にすべてのオーステナイトがマルテンサイトに変態します。
つまり「ある温度域」まで急冷されたオーステナイトはその時点で「焼きが入る」ということが運命付けられますが、その時点ではまだ「どのくらい焼きが入るか」は未定の状態。
「どのくらい焼きが入るか」の度合いは、その後の冷却速度には関係なく、ただ「どこまで冷やされたか」によってのみ決まる、と。
ここで問題なのは前述のMf点。
Ms点もMf点も基本的には鋼の中に含まれる炭素の量で決まってきます。
で、炭素が多いほどそれらは低い温度になるのだそうです。
それの何が問題かって言うとですね。
炭素が多い鋼では、Mf点、つまり焼き入れが終わる温度が常温よりもかなり低い「マイナス何度」という領域になってしまうということなんです。
こういう鋼を焼き入れした場合、常温まで冷やしただけではすべてのオーステナイトがマルテンサイトに変わりきることができず、組織の中に「残留オーステナイト」というものが残ってしまいます。
この残留オーステナイトというのは「マルテンサイトになりきれなかったもの」ですからその分マルテンサイトは少なく、刃物としては硬さの不足したナマクラになってしまうわけです。
しかもこの残留オーステナイトというのは不安定な組織でして、時間が経つにつれてゆっくりとフェライト-パーライトの組織に戻っていくため、放っておくとかなり時間が経ってから割れたりゆがんだりといった悪さもしてしまうのです。
じゃあどうしたら良いかな?
答えは簡単、ちゃんとMf点まで冷やしてやればいいんです。
用意したのは発泡スチロールと燃料用のアルコール。
そしてこれ。
ドライアイス。
氷屋さんで普通に売ってますよ。
で、発泡スチロールにドライアイスを入れ、その上から燃料用のアルコールをドボドボと。
ハイ、マイナス70℃。
水で急冷してからしばらく空気中に放置した素材をこの冷えたアルコールの中に放り込んでやります。
これを「サブゼロ処理」とか「深冷処理」といいます。
先週テレビでカミソリの刃を生産している工場の映像を見かけましたけど、そこでもやっぱり加熱した後に冷凍機でマイナスまで冷やしてました。
まぁ今時こんなアナクロなやり方でサブゼロ処理かけてる工場なんてないでしょうけど、これはゼロ戦とか作ってた時代には最先端技術として行われていた由緒正しい方法、らしい、スマン、うろ覚え。
さっきも書いたとおり「ある温度域」まで急冷しさえすればあとの作業はのんびりやっても構いません。
かといって焼き入れ後、何日も経ってからサブゼロ処理をかけても効きが悪いとかで、やっぱり焼き入れしたらさっさとサブゼロかけた方が良さそうです。
まぁ実際のところ、刃物に使うような種類の鋼材はサブゼロ処理なんてかけなくても実用的には充分なんですけど、そこはそれ一度やってみたかったからさ。
ネタよ、ネタ。
ともかく、ここまでやってようやく「焼き入れ」が完了です。
柔らかかった鋼はここでガラスのようにカチカチに硬くなっています。
それこそガラスのようになっていますので衝撃を加えるとポロッとかけてしまうくらい。
つまり硬すぎ。そして脆すぎ。の状態なわけです。
これではいささか刃物としては神経質すぎます。
そこで今度は舞台をキッチンに移して対応策を。
しばらく冷やした素材を今度はサラダ油で素揚げにしてやりましょう。
この操作を「焼き戻し」と言います。
硬くなりすぎた組織を若干柔らかくし、そのかわりに粘りを与えます。
温度は180℃前後。
普通は火であぶるんですけど180℃なんて低温じゃ赤くもならないため、火色による温度管理ができないのです。
で、去年リフォームした我が家のキッチンにはなんとこんな便利な機能が。
揚げ物モードスイッチ。
いや最近のガスコンロって賢いよなぁ。
これで放っておいても180℃にキープしてくれる。
ありがたいこってす。
ちなみに刃物などのように硬さを優先する製品は150℃から200℃くらいの低温で焼き戻します。
バネなどのように硬さよりも粘り強さを求める製品は680℃くらいまで上げて焼き戻します。
焼き戻しは硬さの調節の他にも残留オーステナイトを安定化し、経年変化でパーライトなどに戻ってしまうのを防ぐ効果もあるそうです。
これで熱処理は完了。
あとは研いで刃をつけ、仕上げの成形をするだけです。
余談ですが。
焼き戻し温度が180℃。
そこまで加熱してやるだけで硬さが減り、粘さが出る。
つまり、そんな温度でも刃物の性質ってのは変わってしまうということです。
パンを切るときに包丁をガスコンロの火にかざしてあぶる人がいますけど、アレ、マズいっすよ。
確実に焼きが戻って切れ味が鈍くなっているはず。
焼きが戻りすぎてナマクラになった刃物はもう再起不能です。
包丁をあたためる上限はいいところ熱湯をかけるところまで。
もうひとつ。
鋼には「低温脆性」っていう性質がありまして。
冷凍物に触れると「焼き戻し」がかけてあってもポロッといきます。
冷凍された魚を出刃包丁で・・・なんてのは絶対に避けましょう。
冷凍物にはステンレス系の冷凍向け包丁を使う。
せっかくの業物が台無しになっちゃいますからね。
とまぁこんなカンジでいよいよ次回最終回。
長かった激闘の日々にもようやく終止符が、と、盛り上げておこうかな。
つぎへ |